人生は何部構成
人生は何部構成なんだろうか
今年の誕生日が来ると29歳になります。
29年も生きてきた実感は未だなく、昔描いていた理想の30歳にはどうやらなれそうもないね。
特に絶望してないのは、これまでの人生がそうだったから。大体いつもそう。
自分には未来に壮大な希望を抱きすぎる悪癖があり、
一度も挫折のないディズ⚪︎ー作品くらい希望に満ち溢れた未来をいつも想像している。
そんな激マブポジティブハッピーマインドを持ち合わせているけれど、未来から乖離した現実が目の前に突きつけられても特に落胆もなく受け入れられるこだわりの無さも持ち合わせているので、こうして俯瞰して見てみると歪だなあと思う。
前置き長いな、こういうことが書きたかったわけではないんだ。
先述の通り、未来に希望を抱いて生きてきた僕なわけだけれど、その希望は小学校、中学校、高校、大学、社会人と、ライフステージごとに切り替わっていった。
ただ、大学以降は全て社会人という括りになり、年収や地位によって行動の幅は増えるけれど目に見えて変わることはない。結婚や子育てを除いて。
そんな例外の一つである結婚を成し遂げたことで、ある種の終点に辿り着いたなと感じている。
(特に誰に配慮するわけでもないけれど誤解されるのは癪なので弁明させてもらうと、全ての人において結婚、子育てが達成すべき尊いものだとは思っていない。そもそも結婚は理想の相手と出会えた場合にすればいいし、子どもも育てる覚悟があればすればいいと思っている。ただの選択の一つだということを弁明させていただきたい。)
終点に辿り着いたからといって、はいじゃあ人生クリア!電源落としまーす!とはならない。
これから先も夫婦としての生活は続いていくし続けていきたい。
今の生きがいは、恥ずかしげもなく書くけれど、妻だ。
妻が毎日できる限りニコニコと笑って幸せに生きられることを極力優先して生きている。
ただ、それだけではいけないよなあと、ふと思った。
関係性を常に新鮮に保つには、やはり自分の好奇心を殺してはいけないんじゃないかと思っている。
出る話題や、話の聞き方は、今まで自分の中に積み重なった知識や経験の結晶体だ。
その原動力となる知的好奇心を殺しては、今あるあらゆる関係性は風化していくばかりだ。友達もいなくなり、妻も去り、家族は逝くばかり。そんな人生ごめんだ。
とはいえ何でもかんでも好奇心の赴くままできるわけではないので、一つずつ向き合っていきたい。
やりたいこと、知りたいことに一つずつ向き合う度、新しい一節が追加されるんだろうなあと思うと未来は明るい。
死の直前、人生を振り返った時、何部構成の人生になっているだろうね。楽しみだね。長生きしなければ。
結局タイトルのワンフレーズが書きたかっただけなんだけど、こんなに長くなってしまった。
なんで毎回同じようなことを書き殴ってしまうんだ。反省してください。読んでる皆さんがちゃんと指摘しないからここまで付け上がってしまったのだから連帯責任です。
よろしくお願いします(?)