ぐだぐだ日和

ぐだぐだ日和ver.2です

土曜の夜に駆け抜けて

座席の調整よし、サイドミラーよし、プレイリストセットよし。
−−よし、出発だ。

 

自動車教習所で習った出発前のチェックはなんだか別のものだった気がするけど、最近は自分なりの3点チェックを済ませて車を走らせる。行き先は雲海が見えると噂の公園。
まあ雲海のシーズンは秋らしいので見れる確率は低めだろうけど、オフシーズンで人が空いているならまあよし。さらに雲海が見れたらなおよし。

 

自粛生活の中で、ストレス発散として運転をよくするようになった。
狭い6畳の1Kも好きだけど、たまに部屋の外に世界がどこまでも広がっていることを感じたくなってしまう反動のようなものなんだと思う。

 

人の気配がすうっと消えた真夜中に車を走らせると、昼間では見えなかったものや夜ならではの発見がぽつぽつと見つかる。

2車線だと思ってた道が実は3車線だった、とか、異世界に紛れ込んだのかなと思うくらい昼と夜で人の数が違う交差点、とか。
そういう昼と夜とでまちがいさがしができるのは夜にドライブをする醍醐味だと感じる。

 

そうして人が消えた街をするすると抜けていくと目の前に高速道路の入り口が現れた。

夜のドライブの醍醐味その2だ。

 

夜の高速は働く車がほとんどで、残りの車は自分みたいにどこかへこっそり向かう人とかばかり。
だからビュンビュンと飛ばす車が多くて、前の車にくっつくように走っていると気付けば窓ガラスがガタガタ言うくらいの速度になっていたりするから恐ろしい。

たまに台風の目みたいに前方に車がいなくなることがあって、そんな時はいつも陸上とかで先頭をぶっちぎるってこんな気持ちなのかな?とか考えたりする。
走るのは嫌いだけど先頭をぶっちぎるのは楽しそう、と考えているうちに追越車線から、それ速度制限大幅に超えてない?と思うくらいの速さの車が右脇からぶち抜いていった。

 

夜の高速を走らせていると徐々に都心部から離れていき、その分だけ街の明かりが遠ざかっていく。
次第に夜の暗闇がどんどんと増していって、足首からゆっくりと夜に浸かっていくような感覚がしてくる。夜闇に浸かりながら車の速さと同じくらいの速度で思考を巡らせる。
こういう夜に考えることはいつもどちらかといえばマイナス寄りのこと。
ネガティブになるわけではなくて、土曜日の夜に翌々日の気配を感じながら過ごしているような感じ。悲観的になるわけではなく、でもいつもは蓋をして見ないようにしていることとゆっくり向き合う。

そんな波風1つたたない、ほの暗い時間を過ごしているとカーナビから2時間運転したから休息を挟むようにという音声がスピーカーから流れる。

促されるがまま夜のドライブの醍醐味その3であるサービスエリアに向かうこととした。


夜のサービスエリアは、夜中の遊園地に忍び込んだような感じがして好きだ。

検品に勤しむ売店、入口の道路情報が流れるモニターが煌々と輝いているトイレ、車内で仮眠を取っている人たち。
すべてが背徳感と期待感を膨らませる。

そんな夜の遊園地を存分に楽しみ、飲み物を補充して改めて目的地に向かう。

余談だけど、サービスエリアから高速に合流する時、減速や追加の加速なしに合流できるとなんだかおみくじで中吉が出たような嬉しさを感じる。

 

そうして目的地に近づき高速から降り、下道をしばらく行くと、残り2kmのところで山道に差し掛かった。ここからは曲がりくねった道を進むらしい。
お邪魔しますと心の中で軽く会釈をしながら車を100mほど進ませてあることに気づいた。

全くといっていいほど明かりがない。
街頭もない、街からのうっすらした明かりも生い茂った木が塞いで届かない。
先ほどとは比べ物にならないくらいの暗闇。そんな道を車のライトだけを頼りに進む。
先程まで心地いいと感じていた夜の時間が、性質を変えて襲いかかってくるようだった。

タクシー運転手の怪談でよくあるようなシチュエーションだなと思った瞬間からもう後ろが振り返れない。
あああ、来るんじゃなかった帰りたい…行くも地獄、帰るも地獄とはこのことか…と深く深く後悔した。そんな瞬間ふと祖父のことを思い出した。

 

祖父は数年前車の事故でこの世から去った。
山道を走っていた際、道を間違えてバックをして戻ろうとした時にガードレールを突き破ってしまい崖から転落してしまったことが死因だったらしい。
あの時祖父は自分の子どもたちと大喧嘩をしていて「探すな」という手紙だけ残して家を飛び出していた最中だった。

こういうことは度々あったので父たちは頭が冷えるまで放っておこうと考えていたと前に言っていた。


この時僕は、こんな歳をとっているのに家でみたいなことをしている祖父の行動が若者のようで面白く感じていた。

いつまでも帰ってこない祖父を心配して叔父が心当たりのある場所を探しにいったところ、事故現場が見つかったようだった。

とてもとても悲しい死に際で、あの時祖父は何を考えていたんだろうと式の間ずっと考えていた。
憎むところまでいっていた父のことを恨んでいたのだろうか。
どうか祖父の死に際が、憎しみで溢れた時間でありませんように、と祈りながら送り出したことをよく覚えている。

 

そんな祖父のことを思い出した時、気づけばあれだけ感じていた恐怖がなくなっていた。
もしかしたら祖父が支えてくれたのかもしれないな、と思いながら山の頂上に向かった。

頂上につくと日の出までは1時間ほど余裕があったので、少し休憩してから日が昇る前に夜景を見に車から出ると、周りは相変わらず真っ暗でスマホのライトがなければ歩くこともままないくらいだった。
スマホを頼りに歩いていると目の前に白いもものがよぎった。見た時にこれが雲の一部だと気づいたけど、その一方で祖父がもう大丈夫だなと安心して黄泉の国に戻って行ったようにも思った。

 

日の出を待ちながら祖父のことを想う
こんなご時世ということもありなかなか帰省もできないけれど、ワクチンを打ったら墓参りだけいきたいなあとか、今心も体も健やかに祖母と幸せに暮らしているだろうかとか、最近の生活を見られたら祖父に雷が落ちるくらい叱られるだろうなあとか。
色んなことを考えた。


人は近しい人の死に直面すると色んな感情に飲み込まれる。

悲しみ、絶望、虚しさ、人によっては喜びもあるかもしれない。
僕は祖父の死に直面した先、悲しみと同じくらい安堵があった。
これ以上父と祖父が憎み合うことがなることが、家族という関係が壊れていくことがなくなったことが、安堵に繋がったのだと想う。

人間は不思議なもので、死に直面した直後は頭の中に常にその人がいるのに、時間が経つにつれて頭の中から去っていく。
僕たちの生活は毎日続いていくし、過去に留まっていては明日からの生活が揺らいでしまうので仕方のないことだけれど、なんだか寂しいことのようにも思う。
関係性によっては常に頭に居続けることもあるだろうけど、僕と祖父の間柄では常に居続けるようなことはなかった。

ただ、こうしてふとした瞬間に思い出すことがあることは嬉しく思う。

思い出した瞬間に祖父の存在が改めてこの世界に刻み込まれ、確かに生きていたと実感できる。
もし自分が死の床についたとき、誰かの頭の中に常に居続けるのは申し訳ないけれど、ふとした瞬間に思い出してもらえる存在になりたいなと思う。
悲しい記憶よりも愉快なことをしていたと、そう回想してもらえるように人との関係を育んでいきたい。そんなことを考えていると朝が昇ってきた。


辺りが明るくなり、周りの輪郭がはっきりしてくるとあることがわかった。
どうにも今朝は周りが雲だらけで雲海どころか何も見えないらしい。どっちから太陽が昇ってきてるかもわからないくらいに。

おじいちゃん、去っていく時にできればこの雲も持って行って欲しかったです。
そんなことを愉快に思いながら帰路につく。

帰り道も、安全運転できるように見守っていてね。
孫より。

知識っておもしれ〜って話

タイトル馬鹿すぎるな。

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スーパーに食材を買い出しに行く道すがら、ふと思うことがある。

普段何気無く過ごしているこの日常、どれだけのことを意識せず生きているんだろうなあ、ということ。

例えばスーパーに食べ物が運ばれるのにどういう道を通ってくるんだろうとか、この買い物袋はどういうもので作られてるんだろうとか。

人が生み出した叡智によって生活が便利に、豊かになっていて、あらゆることを意識せずに過ごせるようになっている。

意識せずに過ごせる事で自分の時間を自分に最大限注げるようになっているけど、意識しないことでダメになってることもあるよなあとも思う。

例えばクレジットカードとか。

これは単に自分がアホなだけな気がするけれど、クレジットカードを使うとき、現金で払うときより「お金を消費した」という感覚が薄い。むしろなんか勝手に決済を終えてくれる魔法のカードくらいに思ってる節もある。

そして支払日になるとなんでこんなに引かれるんだ???もしかして不正利用!?!?と慌てる。

文字に起こすとわかるこのアホさ。

そんな感じで意識しないことでの弊害みたいなのもあるよなあとぼんやり思う。

でも弊害とかそういう損得の話じゃなくて、便利すぎて自分の意識の領域が狭くなってしまってるのがもったいないなあっていう気持ちもある。

例えば、この街は曲がりくねった道ばかりなのに、この場所だけ道路がまっすぐ続いてるのは昔射撃場がここにあったからその名残。みたいな地学的なことを知っていたら、その土地を歩きながらいろんな思いを馳せる事ができるのになあとか。

便利になることで、自分の知的好奇心が小さくなってしまっていることがなんだか悲しいなあと思う。

あらゆることに興味を持って過ごすと、日常の解像度が上がる、みたいな話を友達としていたことをふと思い出したけど、そもそもその興味をちゃんと日常から見つけられるかが大切なんですね…とその時の会話を振り返って思う。

よく考えたら便利になったから興味持てるポイントがなかなか見つからないみたいなことは、環境のせいにした言い訳なのでは………という気もしてきたので猛省ですね……

反省したので今日は久々に本屋にでも行って好奇心を磨こうと思います。

幸せって大抵しょーもない

最近洗い物とか、頭を使わなくていい作業をする時にラジオを聞きます。

ラジオを聞くようになって気づいたけどradikoってすごくないですか?
なんてったってスマホでラジオが聞ける。
でかい機械を用意しなくていいのがすごい。
中学生の頃、クソデカコンポを買ってもらってしばらくそれでラジオを聞いていたなあ…
とか懐古の念に取り憑かれていたけど、コンポでラジオ聞いたことなかった。
コンポで聞いていたのは「猫の恩返し」のサントラと、YUIの「Rolling star」だけでした。
記憶ってあやふやですね。熱中症かな?みんな水分補給はしっかりしましょう。


そんなこんなでradikoの凄さに感動しつつ、最近聞いているのはクリーピーナッツのラジオ。
何がいいって会話の内容がどこを切り取っても「くっだらね〜〜」ってなるところ。

例えば、
イギリスであてもないのにエドシーランを探そうとして手当たり次第街中の人に声かけてたら「お前薬やってんの?」って心配されたり、
マックに消えたメニューとか夜なのに朝マックを食べれる闇マックとかあったらやばくね?みたいな話とか男子中学生か?ってくらいしょーもない話題で盛り上がってる。

こういう本当に中身のない会話をしてる時って本当に楽しいよなあと思いながら聞いている。
いつも仲のいい友達と会って数時間くらい話したりして解散した後、今日楽しかったな〜何話したかな〜と思い返すと、たいてい覚えてなかったりする。
中身すっからかんでノリだけで話してるからなーんにも覚えてない。
でもなーんにも覚えてないのに、楽しかったっていう気持ちだけ残ってる、この幸福。

それを味わえるラジオ、それがクリーピーナッツオールナイトニッポン

一つ注意点をあげるとすれば、外で聞いてると突然笑ってしまって周りから白い目で見られる可能性があること。
あ、あと下ネタが結構出るからそういうの苦手な人もあまり…
注意点一つじゃなかったわ、すみません。

もしクリーピーナッツのラジオ気に入った人は、クリーピーナッツ全然関係ないけど「セトウツミ」という映画をおすすめします。

最近は、中々友達と会う機会も減ってしまって、「あ〜しょーもなかったわ…」って幸せを噛み締めながら帰路につくようなことができておらず、あの頃の彩り鮮やかな生活を取り戻したいと思いながら生きています。
ワクチン打って気軽に外に出られるようになったら、酒を片手にしょーもない会話をする会を一緒にしてくれる人、募集してますのでよろしくお願いします。

もっといろいろ書こうと思ったんですけど、クリーピーナッツのラジオ聞きながら書いてたら集中できなくなったので一旦これくらいにします。

 

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大人になると色んなことを考えてしまうから友達と呼べる人が減る説

皆さんこんにちは。

7月だというのに遅れてきた梅雨のせいで、なんだかひんやりした1日が続いていますね。

僕は暑がりなので過ごしやすいのでこれくらいでいいですが、寒がりの人からしたら夏なのにふざけんな!という感じでしょうか。

突然ですが、気温の個人差問題ってパートナーとか友達とかと住む上で大変問題になる部分だと思っていますがいかがでしょうか。

 

そんなこんなで今回も始めて参ります。

今日のテーマは「小心者」

 

皆さんは、出会った人と親密度が深まるにあたって呼び方を変えるタイミングについて悩んだりしたことはありますか?

僕は常に悩んでいます。

 

例えば、友達の友達と一緒に遊ぶことになって意気投合。そして徐々に仲良くなっていったけれど、呼び方は最初のよそよそしい感じが続く…

 

例えば、行きつけのお店ができてその店員さんと仲良くなった。店の外で遊んだり食事したりするようになったけれど、いつまでたっても〇〇さん呼びのまま…

などなど、シチュエーションはまさに星の数ほどあります。

いつ、どのタイミングで、なんと呼ぶのが正解なのか。

20数年生きてきましたがいまだに分かりません。

エントロピーの説明くらい分からない。エントロピーに関しては何度も調べてきているのに人生において理解できた時が1度もありません。

 

「呼び方なんてなんでもいいでしょ!」という方。

わかってませんね本当に。そんなバイブス&ブルースで生きている人間ばかりではないということを頭に入れてこれからは生きてください。いいですね。

 

まず、呼び方を変えようとした時、最初に思い浮かぶのが、

「仲良いと思ってるのこちらだけでは???」

ということ。

この疑問が誤解ではなく事実だった場合、急に呼び方で距離を縮めたら

「あれ?なんかこの人、仲良い感じ出してきてます?実際、別にそんなことないんですけど(笑)」

みたいなことになりますよね。こんなことになったらもう目も当てられません。親族からもらったチョコレートをバレンタインチョコにカウントするくらい目が当てられません。

 

他にも「今までこの呼び方だったしなんか今更変えるとしっくり来ないんだよなあ」とかいう小心者限定現状維持バイアスとかなんかいろんな要因があって、仲良くなる前の呼び方を続けるせいでいつまでたっても壁があるように感じる関係を続けていかざるを得ないわけです。

 

うだうだ書きましたが結局のところ「仲良くなったよね!だから呼び方でも距離縮めちゃうよ〜!☆彡」みたいなのが恥ずかしいんです。
勘違いだったら恥をかくし、勘違いじゃなかったとしてもジワジワと気づかれないように縮めてきた距離を、呼び方を変えることで白日の下にさらすようで恥ずかしい。

 

ならばどうすべきか。

簡単です。最初から親しげな呼び方をする、これだけです。

第一印象と同じくらい、最初に口にする呼び方も重要です。

だってどれだけ親密になろうと呼び方をその後変更できないので。

 

まあ簡単と書きましたが、仲良くなっても呼び方を変更できない人間が最初から親しげな呼び方ができるわけないんですけどね。

大学4年生までフル単取れなかった人間が、最後の年にフル単を取ってなんとか卒業しようとするくらい無理な話です。

それができるんだったら最初からしている。

 

ちなみに小心者エピソードで言えば「頼んだ料理とかに髪が混入していても変えてもらうことができない」というものがあります。

だってこの髪の毛、本当に店員さんのものかわからないし、変えてくださいって頼んだら100%店員さんは申し訳なさそうな顔をさせてしまうし、それだったら別に髪の毛くらいなら取れば害などないし…とか思ってしまうからです。

 

あゝ、小心者に幸あれ。

 

沈黙は金だけど、会話中の沈黙は死、みたいな雰囲気なんなんですか?

苦手なものってありませんか?

 

僕はいくつかあります。

例えば、AirPodsをしてる時にかかってくる電話。

あれって自分は電話してるってわかってるけど、通りすがる人からしたら「なんか一人で喋ってるやつおる」って感じじゃないですか。

街中で一人で喋ってる人って、今までの経験上関わってはいけないタイプの人が多いので、見かけた瞬間距離をとるようにしてるんですが、AirPodsで電話してる時に他人からそう認識されているのでは・・・と思ってしまうのが苦手です。

 

こんなことを言っていると、

「いやいや気にしすぎでしょ、最近はそういう人も多いんだしみんな電話してると思うって。てかそんなに嫌ならAirPods外してから電話出ればいいじゃん」みたいに言ってくる敵がいますよね。

こういう敵はわかっていない。全くもってわかっていません。

 

唐突にかかってくる電話って「緊急の用件か!?」って思ってしまうのでいち早く出ようとするじゃないですか。AirPodsをとって、ケースにしまって、電話に出るなんてしてたら電話が切れたりするし、すぐ出ないといけないんです。わかりますか?わかってください。

 

だからそんな時は苦肉の策で、スマホを口元に持ってきて「私は電話をしている人ですよ〜だから避けなくても大丈夫ですよ〜」とアピールをしながら電話に出ます。全く意味ないのに。むなしい。

だから苦手です。

 

こんな感じで苦手なものが他にもあります。

その最たるものが「休みの日、何してた?」という問いかけ。

 

いやわかる。相手にそんな悪意はないし、純粋なる興味とか、会話の間を埋めるためにしてくれてるものだってわかるんですよ。

でもそれを聞かれてしっかり話をひろげれるようなことを休日にしていないのです。申し訳ないことに。

 

こうした純粋な問いかけをされるたびに申し訳なさと不甲斐なさを感じるし、結局この話を振ってもらっても「いやー、何してますかね・・・なんか家でダラダラしてますね笑」みたいな返ししかできず、悲しい沈黙に包まれる、みたいなことになってしまうんです。

ほんと愉快な人生を送ってなくてすみません。

 

だから悪意はないけどいい結果ももたらさないこの問いかけ、もう法律で禁止してください。お願いします。

 

と言いつつ、自分でも話に困ったりするとこの便利な問いかけを使って会話から逃げようとするところがあるので、もし僕からこの問いかけをされた時は刑に処してください。

 

もし、この問いかけに対してうまい切り抜け方をご存知の方がいたらご教示ください。会話を盛り上げたい気持ちは人一倍あるんです。

家に帰ってから「あの時、こう切り返しておけばもっと盛り上がったよな・・・」とか一人で反省会するくらいなので・・・。

 

有識者の方、何卒よろしくお願いします。

人にスマホ見られてる時に予測変換に変なワードが出てくると気まずいよね

前に友達と話していた時に、予測変換の話になった。

予測変換には、その人のよく使う言葉、すなわち思考や性格が表れる、と思う。

予測変換に優しい言葉が並ぶ人はきっと優しい人だし、トゲトゲした言葉が並ぶ人はなかなか素直になれないけど優しさをうちに秘めた人なんだと思う。

 

そんなことを互いの予測変換を見ながら話していたところ、突然会話が止んだ。

どうしたのだろうと思って顔を上げると、引いた顔をしていた。ドン引きだった。

なんでだろうと思って相手の視線の先を見ると、僕のスマホにある言葉が表示されていた。
「救急車を呼んでください」………説明させてほしい。


僕は「き」の予測変換で「救急車を呼んでください」というワードが出てくるようにしている。
理由はいつぶっ倒れるかわからないから。


この予測変換を登録した当時一人暮らしをしていた。
ひとり暮らしというのは自由だ。
いつどんなことをしていても許される。何者にも縛られない時間を過ごすことができる。

 

だが自由には代償が付きまとう。


ひとり暮らしで体調を崩すと、不安・孤独・死の恐怖、あらゆるネガティブな感情に襲われる。
しかも思い過ごしじゃないこともしばしばある。
ひとり暮らしでインフルエンザになった時なんか最悪。
枯渇していく体内の水分、動かない身体、おかまいなしに上がっていく体温、食料も水分もない部屋。
そんな状況でポジティブな気持ちでいられるだろうか?

僕は無理だった。

そんな極限な状態でできることは2つ。
回復することを祈るか他者に助けを求めるか、どちらかだ。

ただそんな極限状態で状況を説明する気力も体力も残されているかというと、答えはNOと言わざるを得ない。だからこそ予測変換を利用すべきだと僕は考える。


指を左に1回動かすだけで相手に自分がいかにひっ迫した状態かを伝えることができるし、救急車、もしくは友達自身が助けに来てくれるかもしれない。
なんと賢い未来への投資だろう、そんなことを力説したものの相手にこの想いは届かず「きも」という言葉だけ残されてその場はお開きになった。

 

まあしょうがない。

世の中にはどうしても分かり合えない人はいる。
世の中にはカレーが苦手な人も、犬が苦手な人だっているのだ。
だから、いい。

自分がひとり暮らしをしていて、危機的状況に陥った時に理解するだろう。
ああ、予測変換に「救急車を呼んでください」を登録しておくべきだった…と。
そうすれば自分の命は救急隊、もしくは連絡した相手によって助け出されたのに………と後悔するのは目に見えている。

ただ、この予測変換にも穴はある。
まず第一に相手は事前に住所を知らせておかねばいけないということ。

もう一つは、突然こんなことを送られてきて、即座に対応してくれる信頼のおける友人がそもそもこの世に存在しているのか?ということ。

なんかのドッキリだと思われたり、スマホをこまめに確認しない相手だと詰みだ。
現状僕はその諸問題に対して、なんの対策もしていないので万一のことがあれば、突然こわいメッセージが送られてきて相手に怖い思いをさせるだけとなっている。

求む、打開案。

そろそろ?いやまだ行けるか?いやでも‥

カフェやファミレスで作業をしていると、どうしても気になることがある。

それは店員さんの目。

「こいついつまでいるんだ?」という意味を含んだ目線、これがどうしても気になる。

 

僕はこれにあまり耐えることができないので、いつも目線に屈した段階で退店、もしくは、追加注文を行う(お腹も空いていないし喉も乾いていない場合が多いのだけれど)。

まあ元を正せば飲食店というのは飲食を行う場所であって、長居をすることを目的としているものではないのだから、さっさと出ていくことが良いことなのだろうけども。

 

いやでも一つだけ主張をさせてほしい。

もちろん店が混雑してきたときはお店の機会損失を生むことを是としないので、そそくさと退店する。ここまで長居させてくれてありがとうと思いながらお会計をする。当然である。

でもお店が混んでいない時。

そんな時に長居をするのは許されないのだろうか。いや許してほしい。

 

誰にだって外で読書をしたい気分の日もあれば、急に出先で作業をしなければいけない時とか、家じゃ集中できないからという理由で外で勉強したりする時があると思う。

家でできますが?という人にはもう返す言葉もありません。すみませんでした。

そんな時は少しだけでいいから見逃してほしい。懇願します。

 

もう外で作業をする!と決めたのだったら、覚悟を決めてやりきればいいんだけれど、へなちょこ精神が宿った僕にはどうにも覚悟が決めきれない。
やるぞ!と思って作業を始めても、店員さんがチラッとこちらを見るだけで

「あれ、もしかして邪魔になってます?こいつさえ帰ればノーゲスでHAPPYなのにな〜とか考えてます?」という思考が脳内を埋め尽くす。

一度始まった疑念や不安は脳内からなかなか取り除かれず、無限にリフレインする。

逆除夜の鐘である。

108回反響するまで止む事のない煩悩のリフレイン。

 

こんなことが日常的に起こる。

ただ周りにはこんな思考とは無縁の人がちらほらいたりする。

 

例えば居酒屋。

ラストオーダーが終わり、閉店時間や退席を促された後に延々と話し続ける人とか周りにいませんか?

そう、その人です。

ああいう人は退席を促された後「あ!はいはい、すぐ出ますんで!」と言ってからまたジョッキ片手に話を続ける。30分くらい続ける。そして店員さんに再度促される。そしてまた話し続ける。

あなたには店員さんの刺し殺すような視線が見えていないのですか?

恐縮ですがあなたの背中越しに見える店員さんの鋭い視線で僕はもう4度死んでいます。

そんな人の目を気にしない強靭なメンタルと、話を途切らせない集中力、是非とも身に付けたい。ただそんな人は店からしたら敵そのものなので、退店や退席を促されたらさっさと帰りましょうね。

 

そんなことを思いながら今日も今日とて追加注文をする。

そうして追加注文で摂取した糖分が腹部に積み重なっていくのだろう。

こんな悲しい地層あるかよ。

 

ファストフードのアルバイトしかしたことないから店員サイドの気持ちがわからないので、店員サイドを体験した事のある人は是非忌憚なき意見を寄せてほしい。

 

以上です。